(A)誕生から献身初期

① 1926年10月18日、品川区大井立会町で誕生。父横山英男、母横山サメ。兄弟5人の長男。同43年埼玉県立熊谷中学(旧制)卒。

同年東京明治工業専門学校電気科入学。45年4月海軍対潜學校入学(横須賀)海軍予備生徒となる。8月15日日本敗戦。帰宅。

② 1945年12月沢村五郎師(後の関西聖書神学校校長)のメッセージにより感動、献身決意。50年神戸神学院卒業。同年4月日本基督教団関東教区総会で准允を受け、浦和別所教会の担任教師となり同時に川口市で開拓伝道開始。

(B)川口本町教会創立(現西川口教会)

① 川口栄町伝道所開設主任牧師となる。浦和別所教会の献身者と共に路傍伝道を継続。52年同市本町三丁目の奥田一清宅の敷地一八坪を借用最初の会堂建築。第二種川口本町教会となる。

② 1953年田中静子(日本イエスキリスト教団教師)と結婚、一男二女を与えられる。 

(C)関東教区議長時代から東京聖書学校舎監就任まで

① 1979年(関東教区長2年目)9月ホーリネスの群委員長小出忍師より東京聖書学校舎監就任の要請をうけ妻と共に1年余祈りの後、受諾(神学校内で開拓伝道実施を条件として)。

② 1980年9月東京聖書学校が東久留米に移転した当初から聖書学校にて朝5時半から早天祈祷会開始。他の教師も10名余の神学生対象に授業開始。

③ 横山義孝、静子両人の舎監就任式挙行(司式・原登ホ群委員長・60人出席、舎監 横山義孝、横山静子)        

(D)教団紛争発生から吉川へ聖書学校移転

① 1970時代より日本基督教団では所謂社会派の発生が問題となっていた。これは1969年イースターに当時の教団議長鈴木正久が主張した「戦争責任の告白」に端を発したもので大阪万博(1970年)を中心とした所謂造反派の蜂起で「イエスはキリストではない、ただの人間であり革命家である。十字架復活は幻想にすぎない、我々はその革命家キリストの行動(唯物的共産主義理論)に従うと言って時の教団常議員会に乗り込み議長席を占拠して教団乗っ取りの行動に出た。

②これに対応するために教団内の様々なグループがこれに異を唱え、正統主義をもって対抗することになった。わがホーリネスの群においても第8回教団総会(1932)で制定された、現「教団信仰告白」の正当性を主張してこれに対抗した(新ホーリネスの群略誌参照)。

ここで起こったのがウエスレアンホーリネスのグループである。十字架復活を否定し、ただ人道的な立場からのみ貧者を救おうと唱えるのはキリスト教ではない。「教団は死んでしまった。我々はこの教団から出て、正しいホ群を維持していこう」と分団行動に出たのがウエスレアンホーリネスのグループである。

③ これに対して教団ホ群は「我々は正しい信仰告白を既に主張している(第8回教団総会の決定)。これを堅持して教団を守るべきである。」と宣言した。我々は今日においてもこれを堅持主張している。東京聖書学校は小松川教会に一時移転する。     

(E)新しい聖書学校の建設と吉川移転

① この両グループの分離に当たり土地その他の財産を金額に見積もり両者の教会数により8対2で分け新しい地に移転しようとの年会決議がおこった。両者の間に分離検討委員会が立ち上げられ交渉を開始。比率(8対2)もここで決まった。東久留米の土地800坪は隣接の日本セメントが購入となり、9億8千万円で買い上げられ、教団側は6億7千万円が配分された。これにより原田謙牧師と横山が選任されて土地探しを開始。

③ 1992年6月武蔵野線吉川駅から3分のところに適当の地があることが判明、現在の聖書学校の土地が確認された。中央委員会の議を経てこれが決定され、1994年5月31日に建物完成式が恵みの内に全うされた。

④ 東京聖書学校移転と吉川教会スタート     

東京聖書学校新舎監として西海静雄師(1994―2004年)、西海満希子師(1994―2009年)が最初の舎監とされ同時に吉川教会牧師に就任した。その後鵜沼義民師(2005―2007年)、大友英樹師(2008―2009年)、深谷春男、深谷美歌子師夫妻(2009―2018年)、そして現在は原田のぞみ師(2017年―)、原田彰久師(2018年―)夫妻にかわった。教会名も東京聖書学校吉川教会となり宣教活動が力強く進められている。ハレルヤ。

(F)東京新生教会創立

① 1988年4月17日 ホ群年会最終日年会の議決により東久留米市の東京聖書学校内に黒目氷川台伝道所を発足。(現・東京新生教会)

② 1991年4月9日 黒目氷川台伝道所から第二種教会東京新生教会を設立

③ 1993年 東久留米市野火止地区に会堂建築をし移転、現在に至る。